妻の病気 その3

妻の子宮頸がんが抗がん剤と放射線治療で消えました。

 

それから数か月は天国でした!

行きたいところに行き、やりたいことをして、一緒に仕事をして過ごしました。

 

しかし、4か月経った10月ころから、血液検査で腫瘍マーカーが現れ始めました。

 

再発です。

 

その間もあらゆる治療を試してみました。

放射線治療と並行して受けていたメタトロン。

鍼灸院、CS60、タイムウェーバー、

食事療法や漢方、サプリ。

いいと言われるものはとにかく試しました。

 

12月になって、痛みはどんどん大きくなり、

またステージはⅢbに。

前回もそうでしたが、子宮頸がんが横に広がりすぎていて、手術はできません。

そして、ガンが尿管を圧迫するため、尿が出ず、腎盂炎になりかけていきました。

 

最初のガンの時は、尿管にステントという管を通すことで、圧迫を防ぎ、尿は出せていましたが、

今回はステントが通らないくらい大きくなっていました。

病院からは背中に穴をあけて、腎ロウをした方がよいと言われましたが、

必ず治ると確信していた僕ら、特に妻は、腎ロウはしたがりません。

腎ロウをするとガンが消えても一生背中から管が出ている状態になる可能性が高いからです。

そして、腿に尿を溜める箱がつきます。

それは、とても嫌だったので、断りました。

年末になって、友人から紹介された治療院に通い始めました。

しかし、年末だったので、2回くらいしか行けずに、年末年始を過ごすことに。。。

 

病院からは、これ以上、尿管が圧迫され、尿がでなくなると、熱が出始めて、

そうなると1週間の命となってしまいますと言われ、、

 

なんとか次の治療日までもってくれとひたすら祈りました。

生きた心地がしません。

 

そうこうしている間に、僕の実の祖父が命が危ない状況だという連絡を受けました。

僕の父は、僕が小さいころから単身赴任で、ほとんど遊んでもらった記憶がありません。僕が17歳の時に父は亡くなり、

生まれてから、家を出る27歳の時まで、父親代わりに祖父が僕を育ててくれました。

そんな祖父も悪性リンパ腫となりここ数年病院通いでしたが、2017年の10月ころからついに入院しはじめました。

いつもなら実家に帰っている正月も帰らず、妻のお世話をしていましたが、祖父の命が危ないという連絡に

飛んで帰りたい気持ちと、妻を置いていけないという気持ちと、どうしたらいいのだと困り果て天を仰いでいました。

 

しかしとりあえず、正月があけ、なんとか妻の状態も持ち、治療院にとにかく連続で何日も何日も通いました。

その結果、尿管への圧迫が減り、尿が出るようになりました。

奇跡だ!と飛んで喜びました!!

 

通っていた治療院では、生まれてから今までの薬を抜いていくことを整体でやっていて、その薬が抜けると、身体が元に戻っていくという仕組みだそうです。

薬が抜けるときは、その反動の作用が起きます。

例えば、痛み止めが抜けるときには、抑えていた痛みが噴き出してきて、痛み、

吐き気止めが抜けるときには、抑えていた吐き気が出始めます。

 

その反動がとてもつらく、痛みに耐えていたり、

吐き気の強い時は、何も食べれない状態となり、

栄養失調になっていきます。ガンでもともと痩せてきていたのが、さらに痩せていきました。

 

その都度、色んな対処方法を考えて、食事療法などでがんばっておりました。

食べれないときは、エドガーケイシー療法のビーフジュースや、とにかく新鮮な野菜を煮込んだスープ。

色んなポタージュを作ったりしていました。

他にもエドガーケイシーのひまし油湿布や東城百合子先生の自然療法なども試しました。

 

それでも何も食べれないときは、治療院の先生から、病院で点滴だけ受けさせてもらいなさいと言われ、

なんとか、お願いして、点滴だけ受けるために、2018年3月、点滴入院しました。

そんなときに、祖父が危篤という知らせを受けて、入院をしているなら、大丈夫だろうと飛んで帰りました。

高速道路もみんな前を空けてくれて、すいすい帰れました。こんなにスムーズに帰れたのは初めてでした。

 

もう意識もない祖父でしたが、僕と祖父の二人だけの病室になり、一日過ごしました。

そして、一度だけ目が合い、色々と言われた気がしました。

今日は穏やかですねと看護師さんが言ってくださり、これはまだもつな!と判断して、仕事もあるので、

一旦また神奈川に帰ってきましたが、帰り道、何度か車のナンバーで「197」を目にして、気になりました。

祖父が「行くな」と言っているのではないかと。。。

それでも帰ってきて、眠りについていた時に、深夜に、母から電話があり、祖父が亡くなったと知らされました。

愕然とし、涙は止まらずも、少し寝て、早朝に実家に再び帰りました。

妻のことも気になってはいたけど、妻に連絡したら、点滴したら元気になったと言っていて、助けられました。

 

祖父の顔を見ながら、涙が止まらず、、喪主となった母の手伝いをしながら、葬儀とそのあとのことを片付けるために

数日滞在してから、神奈川に帰ってきました。

 

ポカンと大きな穴があいたような感じでした。

早く自分も死んで、向こうの世界でみんなに会いたいと強く思いました。

 

しばらくして妻を迎えに行き、とりあえず、点滴で回復して退院させてもらいました。

それからしばらくは元気だったり、また痛みが出てきたり、点滴入院させてもらったり、

何度かその波を繰り返し、過ごしていましたが、

治療院の先生からは、抗がん剤が抜け始めてきたから、一旦抑えていたガンが少し大きくなるから、

その時は辛いと言われ、その通りに進んでいきました。

3月の入院の時にステントが入るかもしれないと試したもらった結果、入って、ホッと一安心でしたが、ステントも半年に1度の交換が必要です。

 

11月、交換時期をだいぶ過ぎて、そろそろ交換しないとねとはなしていた矢先に、急に痛みはじめ、病院にいくと、ステントが詰まり始めて、尿が出なくなっているということでした。

すぐに交換をしてもらうことになったのですが、麻酔はなるべく使うなと治療院の先生から言われていたので、

無麻酔でお願いしました。

そしたら、もう大変。

処置室の前で待っていましたが、妻の叫び声が1時間止まりませんでした。。

 

神様、仏様、誰でもいいから、助けてください。じいちゃん、お父さん、ご先祖様、助けてください。

泣きながらも必死に祈り続けました。

 

1時間後、声が止まり、処置室のライトが消え、へとへとになりきっていた妻を乗せたベッドが出てきました。

すぐさま、先生に問いただしたところ、なんとかステントが入りましたよ。と。

この時も、もうホントに脱力しました。よかった~。

無麻酔なので、すぐ帰れるとのこと。へとへとの妻を車に乗せて無事帰宅。

ステント事件はとりあえず乗り越えました。

 

しかし、また12月、痛みがどんどんひどくなり始めます。

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